共用品推進機構 星川安之氏×花田店主 松井英輔


「特別」を減らしたい -前編-

共用品推進機構 専務理事 星川安之

星川安之さんは、トミー工業株式会社(現タカラトミー)にて目の不自由な子どもたちも
遊べるおもちゃ作りに取り組み、1999年に共用品推進機構を設立。
障がいの有無や年齢の高低に関わらず使うことのできる、共用品の普及に尽力されています。
そんな星川さんに、活動のこれまで、今、これからのお話を伺いました。
前編後編の二度に分けて紹介いたします。
まずは前編をどうぞ。



応用問題の始まり

花田: 星川さんは元々、おもちゃの世界に興味があったのですか。(以下 花田-)

星川: 学生の頃は、牧場で働いてみたり、印刷会社で徹夜のアルバイトしたり、家庭教師したり・・・
とにかく働きたくて仕方が無かったんです。一生の仕事として、自分に何があっているのか、
ずっと考えていた学生時代でした。仕事ではありませんが、重度重複障がいのある子どもたちの通所施設で、
そこの子どもたちと遊んでいたこともありました。
そのうち、そこの療養士の方に「定期的に来てください」って頼まれて。

-:  人気者だったのですね!

星川: そういうわけではなくて、気まぐれに来られると困るってだけの話です(笑)。
それで、本腰を入れて定期的に訪問するようになりました。その中で、療養士の方が
「ここの子どもたちが遊べる市販のおもちゃが少ない」とポツンと言ったことがきっかけでした。

-:  そこにはおもちゃは無かったのですか?

星川: 置いてはあったけど、使われていませんでした。当時、数学の応用問題が好きでね。
解ける時の面白さに惹かれていました。で、そのおもちゃの問題が、自分にとっては応用問題だったわけです。
「これは面白い問題を出されたな。解いてやろう」と。
それでそういう仕事をさせてもらえる会社を探し始めました。
そして、若造のこんな金になるか分からないような話しを聞いてくれた唯一の玩具会社が
トミーだったということです。

1000人の子どもたち

-: 入社後おもちゃ作りはすぐに始めるのですか?

星川: そういう部署がそもそも無いので、別の部署に配属されていました。
で、その年の8月31日に副社長に呼ばれて―今でも呼ばれたときのことは良く覚えています。
―「明日から、お前が話していたような部署が出来るんだけど入るか?」って聞かれて
「そのために来たんですから!」って。本当にうれしかった。早速9月1日から情報収集を始めました。
開発部には140~150人の研究員がいて、おもちゃについてはとにかく親切に教えてくれるんです。
一方で、障がいのことをちょっとでも聞こうものなら、顔を背ける。
というか、そもそも聞かれたってよく分からないですからね。それなので
話したこともない先輩達に内線電話かけまくって、障がい者と関わりのある人たちを紹介してもらいました。
とにかく、なんでもいいから障がいと関わっている医者や教育関係の人たちに会う。
そして、彼らの個人的なつてで、さらに紹介してもらう。
結局、一年で1000人くらいの子どもたちに会いました。
ちょうど、自閉症が大きくクローズアップされている頃で、そういうお医者さんにも会ったし、
見えない、聞こえない、或いは知的障害、脳性麻痺など、本当に様々なところへ行きました。

-:  印象に残っていることはありますか。

星川: 福島の施設へ、肢体不自由の子どもたちに会いに行った時でしょうか。最初、僕の顔見ると、
緊張して、身体が震えるか固まってしまうんです。緊張すると頭の構造がそういう風になってしまう。
ただ、ある夜一緒に寝ていた時に、彼の手を持ったら、フランフランしているわけですね。
つまりね、頭や脳に傷はついているけど、手そのものは、なんでもないわけです。

-:  柔らかく動く。

星川: 理論的にはそうなんだろうけど、当然当時の僕はそんなこと知らないし、
たまたまそれに直面したから衝撃的だった。或いは、電話ではOKもらっていたのに、
施設行ったら営利目的の企業とは連携できないと言われたこともありました。
泊り込んだり、家庭に入り込んだり・・・とにかくいろいろあって、無我夢中の毎日でした。
あと、色々やっていると、社内外でカミングアウトしてくる人たちが結構いて「実はうちの息子がね・・・」
なんていうことも結構ありました。

-:  何も分からず始めて、光が差してくることもあるだろうし、
先が急に曇って見えなくなることもあったことでしょう。

星川: 先なんて全然見えていないですよ(笑)。

-:  失礼しました・・・

星川: 「なんだこの世界は・・・こんなに奥が深いのか」という実感です。
どうやってこの問題解いていこうと。もう、問題だらけです。いや、問題しかない(笑)。




こちらのオセロゲームは共用品のひとつ。白い面はツルツルで黒の面には溝が付いており、 触った時に色の判別が出来るもの。ボードの目にも仕切りをつけてあります。

誰のために・・・

星川: 一年後、役員会で調査結果を発表しました。
そこで、そろそろ玩具を作ろう、ということになって。今思えば、実はそれが救いでした。
「そうだ、自分の仕事はおもちゃを作って子どもに喜んでもらうことだった。
そのために、この子どもたちに会っていたんだ」って我に返った。
自分自身、1年かけて色々な人と会って、様々な情報に圧倒されていたし、
多少混乱している状況でもあったので。

-:  それはそうですよね。

星川: まずは目の不自由な子ども達に焦点を絞ることにしました。
今度は、見えない子どもがいる家庭を20軒回って「使えなかったもの」「良かったもの」
「欲しいもの」を聞きまわって。

-:  今の「不便さ調査」が生まれた瞬間ですね。

星川: 全ての家に上がりこんでね。そのお母さんたちとは今でも付き合っています。
東大の准教授になった子もいます。「お前のオムツ替えていたんだよ、知っているかー?」って聞くと
「はい知っています」とか言って笑っている。

-:  うれしいですねー。

星川: (笑)うれしかないですよ。

-:  (笑)

星川: うれしかないですけど(笑)、色々なことがありました。
離婚している母親にその相談されたり・・・。僕、当時、23才ですよ。

-:  結婚すらしてない。

星川: 結婚がこれからの僕に、結婚の文句を話しまくるわけです(笑)。
「おもちゃの話しだけしていたいなあ」と思いながら、聞いていた。

-:  色々教えてもらわなきゃならないし、まったく聞かないわけにもいかないですよね(笑)

星川: さて、ある家には、ずいぶん大きな家のおもちゃがあった。
「何ですか?」って聞いたら、その家のかたちをしているらしいのです。
娘さんが見えないから、家の中での移動に困っていた。家の形を全体で理解しないといけない
ということになって、彼女が中に入るくらいの家の模型を、母親が木で作ってあげていていた。
娘を思う母親の気持ちを、大きな自宅の模型というかたちで突きつけられた時の衝撃は
今でも覚えています。自分が挑んでいることの意味も再認識しましたし、
この人が作れるのならと、勇気付けられもしました。
それをきっかけに、自分でも色々作りました。
例えば、積み木は見えているから次々積んでいけるわけですよね。
見えないと積みづらいからって、マジックテープを6面全部につけた積み木作ったり、
神経衰弱も、誰かに自分がめくったものを教えてもらってもつまらないから、
触って分かるトランプを作ったり・・・。
あとボール。鈴が入っていてどこにあるか分かるボールはあるんだけど、動きが止まってしまうと、
音も止まってしまうので、そこで遊びが止まってしまう、という意見が出たんです。

-:  現場に行くと色々なものが見えてきますね。

星川: その後、30秒間メロディが鳴るボールや盲人用の盤ゲームなどを開発し、
視覚に障害のある人専用商品として販売しました。
その頃になると、状況も色々と好転し始めていました。
出版社と共同で、触る絵本とおもちゃの展示会を10日間くらいやった時も、
想像しなかったような多くの人たちが来てくれて、新聞記事にもなりました。
いよいよ順風満帆かと思ったら、そうはうまく行かない。
経済環境の悪化とともに、会社の業績も悪化してきたんです。
2000人いた社員が1000人くらいに削減されてしまい、当時の副社長(現会長)に呼ばれて
「会社がこういう状態なので、不採算部門は全部閉鎖されることになったんだけど、
どうする?」って聞かれました。


応用問題 第二章

星川: 私、反射的に「他社が2000万円で事業を買うって言ってきていますから、
今売ったほうがいいですよ」って答えたんですよね。
今でも「あの時は、おどされた」って言われるけど(笑)。

-:  すごいですね。事業に対する愛情を感じます。

星川: 結局「なにかの方法で事業を残すことを考えよう」ということになり、
続けるためには、就業時間後の5時からその仕事をするしかない。
5時までは普通のおもちゃの開発をすることになりました。部署の部屋もなくなり、大部屋に移り、
しんみり・・・となっていたんですけど、いざ移ってみたら、これが面白いんですよ(笑)。
開発部の試作を毎日間近で見ることできるんです。

-:  対象は違うかもしれませんが、同じ玩具ですものね。

星川: 実際、専用品では多くの種類を作ることができませんから一般向けの玩具を
共用にすることも大切です。そんな時、一般向けボードゲームを開発している同僚に、
目の不自由な人も遊べるように盤の中央にポッチをつけてもらえないかと頼み、
作成されたのが「共用品」の第一号になりました。
ただし、それまでの商品と違い一般の玩具店に並ぶため、
「どうやって見えない人が遊べることを伝えるのか?」とういう指摘が社内からあがりました。
社内公募で、盲導犬をデザイン化したマークをパッケージにつけることになりました。
さらに、「それトミーだけでやるのか?1社だけで解決できる問題じゃないだろう」という話になり、
業界をまとめる日本玩具協会の理事会で業界全体で取り組むことを提案し、
一週間後には話しが決まっていました。それで、私が午前中はトミー、
午後は日本玩具協会に通うことになるんです。

-:  凄い勢いで話が進んでいきますね。

世の中が動き出す

星川: 共用品を、玩具では共遊玩具と名づけました。ガイドライン作ったり、カタログ作ったり、
海外の玩具協会と連携したり、取材受けたり・・・多くのマスメディアにもとりあげていただきました。
報道で協会の活動を知ってくれた他業界の人たちとの勉強会も始まります。
既に協働していた点字図書館に机一個貸してもらって、そこを勉強会の事務所にしました。
それが、今の財団の前身であるE&Cプロジェクトという勉強会です。
1991年に16名で始めて、その時出すお菓子も私が買っていたんです。
そうしたら「あのお菓子はだれが買っているんだ」って皆が不思議に思い始めた(笑)。
16人だから大したことはないんだけど、毎月会費を1000円集めることになりました。

-:  星川さんが一人で買っていたお菓子も、組織のつながりを強くすることに貢献したのですね(笑)。

星川: 最初は視覚障害者の「不便なこと、教えて下さい」という不便さ調査をしていました。 2人1組でね。ライバル会社同士で組んでもらうこともありました。 例えば、家電会社の人は自分の開発した洗濯機をある家庭で見つけて、喜んだ。 でも「すごく使いにくい」って言われてましてね。なぜなら、昔はボタンを押すとへこんだけど、 今は平らになってしまい、どこがどこだか分からないから。彼は、帰ってきて「目からうろこが落ちた」 って興奮していました。で、会社戻ってから、ボタンに点字を付け始めたんです。 そうしたら家電製品協会でも、業界として取り組もうということになって、 業界のガイドラインにもなりました。今度は「他の業界でも使えるよね」って JIS規格を作ることになって。まあ、一事が万事こんな感じで、とにかく場当たり的なことの 連続なんだけど、ドンドン前に進んで行くんです。その勉強会、8年後には400人、 会社にしたら300社になっていました。




いよいよ、世の中に大きな影響を与える存在になってきた、星川さんの活動。後編をお楽しみに。

共用品推進機構
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